『泥棒!: アナキズムと哲学』
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単行本 – 2024/7/29
p364 「私はアナキストである」。哲学者たちにとって、この命題は永久に不可能性を刻印されているようだ。私たちはあなきすとであることはできない。存在のアナーキーという現象は、原理が衰退する時代において、存在が一切の存在者的規定に還元不可能であるということを示している。存在とはもはやしかじかのものではなく、それゆえ述語[「アナキストである」の「アナキスト」]を伝達するというエージェントの役割を果たしえない(シュールマン)。 私達はアナキストであることはできない。実のところ無始原は存在論よりも根源的なものであり、存在論的差異そのものを超過する(レヴィナス)。「語ること」は「語られたこと」を超過し、義務としての応答責任を存在することの彼方へと運び去ることで、命題の形式[「アナキストである」という命題の形式]から無限に溢れ出ていく。 私たちはアナキストであることはできない。アナーキーと〈できるという力〉——「アナキストであることができる」を結びつける以上、何らかの仕方でアナキズムは支配欲動に関わっている(デリダ)。 私たちはアナキストであることはできない。主語[「私たち」]を変容させ、主語を規定することでアナキストにするのは、「アナキスト」という述語ではない。ちがうのだ。主語=主体は、まず自分自身に固有のアナーキーな次元を練り上げ、みずからに固有の変形可能性を準備し、アナキストとして「存在する」よりも前に、アナキストという述語を付与するよりも前に、自分自身をアナーキーな主体として構成しなければならない(フーコー)。 私たちはアナキストであることはできない。政治において作動している否定性、すなわち不和と根源的な計算違いの構造は、定着しえない。それらは、稀に、断続的で間欠的な仕方でしか現れない。そのような否定性は上演されるだけであって、確立されることはない(ランシエール)。 アナキストであることの不可能性を強調することで、哲学は支配に対する批判に失敗してきた。
p367 アナキズムが存在の問いの意味であるがゆえに、存在の問いは素通りされた。実際に存在の問いが意味をもつとしたら、その意味は〈統治されざるもの〉、支配に対するラディカルな異質性とまざりあう。存在は、権力を馬鹿にし、権力を問題にしないのだ。まさにアナキストなのである。
p371 アナキズムとは、いかなるはじまりにも命令にも依拠しないがゆえに、現実存在する前につねにみずからを発明し、形成しなければならないような唯一の政治的形態である。したがって、アナキズムはけっして現在そうであるようなものではない。アナキズムはまさにこの点にかかっている。このような可塑性こそアナキズムの存在ほかならぬ意味であり、アナキズムの問いの意味なのだ。 アナキズム側からの応答、可塑的存在論の解釈についての問いが必要。
現在は〈統治されざるもの〉たちの抑圧された声(奴隷、被植民者、奴隷者の声)から描き出してきた。
今や政府の役職にアナキストがついている
オープンソースのツールを国家が使うこと。
シビックハッカーが現存の制度の構造を脅かすような仕事をする。台湾はハッカーを打ち負かすことはできないので、ハッカーと一緒にやっていくしかないというアプローチ。
制度を首尾よく転覆するために制度に加わる。
中国はこの大胆さに危険なまで怒っている。=ヘゲモニーを動揺させている。
Chat GPTによるまとめ
あなたがおっしゃる『泥棒!』(*Thieves!*)は、カトリーヌ・マラブーの短い哲学的エッセイで、哲学とアナキズムについて彼女が考察を深めた重要な作品です。このテキストでは、「泥棒」という存在をメタファーとして用いながら、哲学とアナキズムの共通点や相違点を探求しています。
以下に、主なポイントをまとめます。
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- マラブーは、「泥棒」を反権威的で既存の秩序を揺るがす存在として描写します。泥棒は規則や所有権といった社会的構造を否定し、それを侵犯することで新しい価値観や秩序の可能性を提示します。
- 哲学者もまた、既存の思考の枠組みや権威的な知の構造を「盗む」存在と見なされ、これがアナキズムと哲学を結びつける基盤となります。
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### 2. **哲学とアナキズムの共通点**
- **反権威的姿勢**
哲学もアナキズムも、権威的なシステムや既存の支配構造に疑問を投げかけます。哲学は知の領域で、アナキズムは社会の領域で、これを行います。
マラブーは、哲学もアナキズムも「破壊的」でありながら新しい可能性を生み出す「創造的」な活動であると主張します。この点で、両者は相互に補完し合う関係にあるとします。
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### 3. **哲学とアナキズムの違い**
- **実践性の差**
マラブーによれば、アナキズムは行動に焦点を当てる「実践の思想」であるのに対し、哲学は観念的・批評的な領域にとどまりがちです。これは、アナキズムが即時的な社会的変革を目指すのに対し、哲学はその変革を可能にする理論的枠組みを提供するという役割の違いを示唆します。
- **個別性と普遍性**
アナキズムは具体的な社会問題や権力構造の批判に集中する一方、哲学はより抽象的・普遍的な問い(存在、自由、正義)を扱います。この点で両者は異なる視点を持ちながらも、相互に補完的です。
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### 4. **泥棒と可塑性の関連**
- マラブーは「泥棒」を単なる破壊者としてではなく、可塑性(plasticity)を体現する存在と捉えます。泥棒は既存の秩序を壊しながらも、新しい価値観や関係性を創り出す可能性を持つ存在です。 - これは、哲学やアナキズムが求める「変化」と「再創造」のプロセスを象徴しており、泥棒の行為が哲学とアナキズムの融合点を象徴するとも言えます。
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### 5. **現代社会への応用**
- 『泥棒!』では、現代社会の文脈で哲学とアナキズムが果たしうる役割についても考察されています。特に、資本主義や中央集権的権力がますます強化される中で、哲学とアナキズムの連携がいかに新しい社会モデルを提示できるかが論じられています。 - マラブーは、「泥棒」のように既存の枠組みを乗り越えることが、新たな倫理や主体性の可能性を開く鍵になると示唆しています。
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### 結論
カトリーヌ・マラブーの『泥棒!』は、哲学とアナキズムの対話を深める重要な試みです。彼女は両者を単に並列させるだけでなく、それぞれの方法論や目的の違いを認識しながらも、両者が共に新しい自由の地平を切り開く可能性を示しています。この作品は、哲学と社会的実践を結びつける橋渡しとして、読者に深い洞察を提供します。